うなぎはとっても美味しかったです。
でも最後のキスはいただけなかったです。 「何もそんなに落ち込むことはないだろう」 あのキスの一件以来、無言で黙々と残りのうな重を平らげて、ついでにお吸い物もしっかりお腹におさめた私だったけれど……。 あまりのショックに御神本(みきもと)さんとなんて、とうぶん口きいてやるもんか!と心に誓ったの。 「花々里(かがり)はうなぎ、好物なんだろ? だったらキスがその味でも問題なくないか? ……逆に何でダメなんだ」 そんなことを言ってくる時点で女心が理解できていないと思うの。 いつも女性にちやほやされて、相手を気遣う心を学び損ねてしまったんじゃないの? ちやほやされてる、とかは私の勝手な想像だけどね、考えたら何だかイラッとするわ。 あれもこれもモヤモヤの種に思えてダンマリを決め込んだ私だったけれど……。 ただ、一度だけ。 「お詫びに俺のうなぎも食うか?」って彼のお重を差し出された時だけは無言でうなずいて受け取ったの。 わ、わかってる。 そんなことで懐柔されるとか、乙女としてよくないってことぐらい。 でも……でも……。 まだ食べたかったんだもん! 「近いうちに櫃まぶしや肝吸いも食わせてやるから。――機嫌直せよ、花々里」 案外女性にへそを曲げられた経験がないのかもしれないわね。 うなぎは受け取っておきながら、食べ終わるや否やムスッとして黙り込んだ私のことを、御神本さんが存外気にかけてくれるのが何となく心地いい。 優越感、とでも言うのかしら。 ほら、だって私。ここまで散々この人に振り回されてきたし。少しぐらい仕返ししたってバチは当たらないでしょう? *** レクサスLSの助手席ドアを開けてもらって、無言で乗り込んで。 来た時と違ったのは、彼の手を煩わせることなく自分でちゃんとシートベルトをかけられたこと。 車に乗る機会自体あまりないからよくわからないのだけど、助手席に乗り込む際、男性が扉を開けてくれるのは一般的? 何だかお姫様扱いされてるみたいで落ち着かないとか思ってしまうのは、私が世間知らずだから? 何にしてもこのままアパートに戻るまで私、御神本さんとお話してあげないの。 キスで有耶無耶になってしまった婚姻届の件もあるから、彼とこのまま手が切れるのはまずいとは思う。けれど……お母さんと知り合いならきっと、お母さん伝で何とか連絡は取れると思うし。 今すぐどうこうこちらが動かなくても大丈夫……だと、思う……。 あんなに散々私のことを振り回しておいて、そう言えば彼自身、私の連絡先とか聞いてこようとしないし。 あ、もしかして貧乏だから持ってないと思われているのかも? だとしたら少し心外だ。 確かに通信費は痛いけれど……携帯がないといざって時にお母さんと連絡取れないもん。 自宅には固定電話なんて引っ張っていないし、携帯がなくなったら色々困るから。 もちろんスマホみたいな通信費が高くつきそうなのは無理だから通話だけを重視して、いわゆるガラケーというやつを愛用しているけれど。 これだって結構な文字数のショートメッセージぐらいなら出来るから案外不便はないの。 そんなことを考えながら窓外を流れていく街並み――もうすっかり暗くなってしまった――をぼんやり眺めていたら、不意に声をかけられた。 「――少し寄り道しても構わないか?」 私、正直な話、めちゃくちゃ方向音痴なの。 今どこを走ってるのかなんて、暗さも手伝って皆目検討がつかない。 おそらく何も言われずに寄り道されても、停車するまではさっぱり分からないし、気付けなかったと思う。 でも、無断でどこかに立ち寄られたって分かった時には絶対何事?って思うだろうし、いい気持ちはしなかったはず。 あのキスからこっち、ずっと私がムスッとしてるのを知ってて。でも、言うべきことはちゃんと言ってくるところ、偉いなって。……そう、ほんのちょっぴりだけど、御神本さんのこと、見直したの。 それで、声こそ出さなかったけれど、小さくうなずくだけはしてあげました。 *** 御神本さんが立ち寄ったのは意外にもコンビニで、こんな世間離れした印象の人でもコンビニとか行くんだって妙な感心をしてしまう。 でもきっと、こう言うところでの買い物自体慣れてないんだろうな。 店内をうろつく御神本さんを、ロックで守られた車内から見るとはなしに眺めながら、思わず唇の端が緩んでしまう。 何を探しているのか知らないけれど、迷いすぎじゃない? 大体コンビニなんて、「こういうのはココ」とか、どこの系列店に行ってもそれなりの不文律みたいなの、あると思うんだけど。 御神本さんは身長も私より20cmぐらいは高かったし――恐らく170cm後半ぐらい?――、身に纏ったオーラがどことなく気高くて、コンビニなんてチープな場所にいたら余計に目立ってしまうの。 しゃがみ込みでもしない限り棚の陰に頭が入ることもないし、何ならずっと首から上が見えている。 私は155cmだから頭の先っちょが棚から覗くか覗かないか、なんだけど……こうしてみると背が高い人っていうのも常にどこにいるか監視されて可哀想ね。 って、私が追跡するのをやめればいいだけなんだけど。 だってだって! 何となく気になってしまうんだもんっ。 御神本さんクラスの人が、コンビニで何を買うんだろう?って。 「あ……」 結局自力で探すことを早々に諦めてしまったみたい。 店員さんに何か話して、割とレジに近い棚の一角に連れて行かれてる。 あの棚は――。 *** 「待たせたね」 ややして集中ドアロックが解除されたと同時に運転席側のドアが開いて、御神本さんが車内に乗り込んできた。 彼が乗ったと同時に、行きがけにも感じた爽やかな香りが鼻腔をくすぐって。 何だろ、この匂い。 香水? 男性でも香水とかつけるものなの? そんなことをふと考えながら、無意識にじっと御神本さんを見つめてしまって。「何だ、花々里。もしかして寂しかったのか?」とか聞かれてしまった。 さ、寂しっ!?……いわけないじゃないですかっ! どうやったらそんなおめでたい思考回路になれるんでしょうね? 思いながらフィッとそっぽを向いたら、「まだ口をきかないつもりか? なぁ、コレやるから機嫌直せよ」とか。 コレ。 分かってます。 〝飴玉〟ですよね!? さっき店員さんに飴のコーナーに連れて行ってもらってるの、私、一部始終見てました。 わざわざ寄り道してまで買ってくれるとか。 この人、私のことをどれだけお子ちゃまだと思ってるんでしょうね? 「で、花々里は右と左、どっちがいい?」 2種類も買ったんですか。お金持ちは違いますねっ。 彼が片手ずつにささげ持った、ピンク系統と黄色系統のパッケージを横目に見てそう思う。 思いながら、ムスッとした声音で「左……っ」と――。「ピンク色の方がいいのだ」と答えてしまう私って一体。 *** 「はい、どうぞ」 ガサガサとパッケージを開ける乾いた音を聞きながら、何となくそっちを見るのがはばかられてうつむいていたら、再度促すように「どうぞ」と声をかけられた。 その声に顔を上げたら……。 「な、んっ……!?」 で口移しっ!? 御神本さんが唇で軽く挟んだ飴玉を、キスの要領で私の唇に押し当ててきた。 私が顔を背けられないようにしっかりと両手で頬を挟み込んでるの、用意周到すぎてっ。 そんなこんなに思わず抗議の声をあげようと口を開いたら、チャンスとばかりに桃味の飴玉が口の中に押し込まれた。 そうしてそのまま飴を押し進めつつ彼の舌も一緒に侵入してきて……。 私の舌の上で飴玉を転がすように蠢くのっ! 「あ、っはぁ、……んっ」 執拗に擦り合わされるベロの動きに、口の端からトロリと甘い桃の香りの唾液が伝い落ちる。 やだ、ベトベトになっちゃうっ。 とか咄嗟に思いながら御神本さんの両腕をギュッと掴んだ。 と、ようやくそれで唇が解放されて。 っていうかここ、コンビニの駐車場! 店内からの明かりでめちゃくちゃ車内も明るいのにっ。 何考えてるの、この人! そう思って口をパクパクさせながら固まっていたら。 「花々里は桃かレモンの香りのキスがご所望だったよね? これでさっきのうなぎが上書きできて、機嫌も直してくれるだろう?」 とか。 嘘っ。 私が言ったこと、そんなに気にしてらしたんですかっ!? っていうかその解釈の仕方、すごくズレてると思うの! 私、うなぎ味のキスを桃味の飴玉で甘く上書きして欲しいだなんて、一言も言ってないっ!あの人、百足《むかで》だった。 靴が多すぎて、どの靴を履いて行ったのか……そもそも靴が減っているのかすら私には分からない。 家の前の車庫に車あったっけ? そもそもシャッターはどうだったかな。 開いてた? 閉まってた? うー。思い出せないっ。 考えてみたら家の前に帰り着いた時点で真っ暗だったし、いつも以上に周りが見えていなくても不思議じゃない気がする。 今日 寛道《ひろみち》に、「お前は景色を見てるようで見てないんだよ」って言われたんだけど、そういう事なんだって今、思い知ってます。 もし頼綱《よりつな》のほうが先に帰宅していたら、きっと「どこに行ってたんだ?」って聞かれてしまう。 あの人、今朝、今日は何時まで講義があるか聞いてきたし、問われたら絶対まずい。 ふと腕時計に視線を落とすと、20時を過ぎていて。 18時過ぎに大学が終わって、どんなにちんたらしたって19時までにここに帰りつけないなんてことがないことぐらい、私にだって分かる。 どうかまだ戻ってきていませんように。 祈るような気持ちでそろりそろりと廊下を歩いて、自分に割り当てられた部屋を目指す。 あそこを曲がれば自室、ってところで「花々里《かがり》」と、仁王立ちしている頼綱に呼び止められた。 その声に、思わず「ひっ」と悲鳴が漏れる。「おかえり。――随分のんびりとした帰宅だね。外、真っ暗だっただろう」 淡々と問いかけられて、私は頼綱から距離を取るように壁づたいにずりずりと背中を擦りながら自室に向けて横スライドする。「あ、あのっ、ちょっとお母さんのところへお見舞いにっ」 帰りが遅かった理由としては妥当だし、堂々と言えば良いものを後ろめたさに後押しされて、私は頼綱の目を見られない。 すすす、っと視線を逸らすようにしながらそう言ったら、まるで遅く帰宅したことの言い訳にしか聞こえなくて、自分でも空々しいと思ってしまった。 私本人がそう感じているのだから、頼綱が思わないわけがない。「そう
「ただいま戻りました」 お母さんと2人の家になら、「ただいまぁー」と間延びした声で帰宅するのだけれど、居候生活3日目の現状ではさすがにそれははばかられて。 これを、「気を遣っている」と見るか、「様子見しているだけ」と見るかは微妙なところなんだろうな。 予期せずお母さんに会ったことで、少し弱気になっている自分に気がついて、私はフルフルと首を振った。 病院でお母さんに即答したように、別に私、御神本家《みきもとけ》で肩身の狭い思いなんてしていないし、もちろん虐げられてもいない。 ばかりか、むしろとても大事にされているという気までするくらいで……ホント不満なんてないの。 何より食事が美味しいし、旬のものを必ず一品は取り入れるようにして料理を作る八千代さんの姿勢は、大いに見習いたいとも思う。 御神本家にいると、食事ってお腹が膨らめばいいってだけのものじゃないんだなって痛感するの。 そんな私が、ただひとつ困っていることがあるとすれば、頼綱《よりつな》とひとつ屋根の下で寝食をともにしているということ、かな――。 昨夜も嘘か冗談か、「今夜こそは」と同衾《どうきん》を迫る頼綱を部屋から追い出すのに苦労したし、多分今夜も。 小町ちゃんに「頼綱への気持ち」に気付かされてしまった今、それが逆にズシーンと重くのし掛かってくるようで。 好きな人から求められることが嫌だと感じる人はいないと思う。 私だって……本音言うとそう。 自分の気持ちに気づいてしまった今夜、私は頼綱を拒めないかも知れない。 それが、怖い。 ……私と頼綱は使用人と雇用主。 頼綱の私への執着は、もしかしたら学費を出して手に入れた私への品定めに近いところがあるんじゃないかしら?とも思ったりして。 そんな頼綱にもし気を許して、何もかもを見極められてしまった後、それでも彼が私に価値を見出してくれるのかな?って考えたら、イマイチ自信がないの。 そんな状態で入籍なんてして、戸籍上も彼のものになってしまったら……私、途端に価値を失ってし
ヤバイ……。 小町《こまち》に「手遅れかも」とか言われて……。 ついでに、以前書いたとかいう婚姻届がまだ保留にされているんだと知って……。 俺、つい焦って花々里《かがり》に「好きだ」とか言っちまった。 子供の頃からずっと花々里のことしか見ていなかったけど、花々里は父親を亡くしてからこっち、食いモンしか見てなかったし、それならそれで急がなくても少しずつ歩み寄っていけばいいかと思っていたのに。 それこそ俺が就職してから。 稼げる男になってから。 花々里に自力で美味いモン、たくさん食わしてやれるようになってから。 そうなれてから好きだと告げて、ただの「幼なじみ」から「1人の男」として意識してもらえたらいいと思ってたんだけどな。 子供の頃といい、最近といい、何だって花々里はすぐ俺じゃないヤツに餌付けされちまうんだ! 俺の餌付けが足りなさ過ぎたのは認める。 何つっても母親頼みだし……他力本願な時点で詰めが甘い。 うちには4つ年の離れた食い盛りの双子の弟達もいるし、どうあっても常におかずの奪り合いが起こる。 家だって、ごくごく平均的月収のサラリーマン親父と、パートタイマーの母親が支える、いわゆる庶民だし。 頼綱《よりつな》みたいに、いつでも高級なモンを食わしてやるとか現状では絶対に無理だ。 けど――。 負けたくないって思っちまったんだからしゃーねぇじゃん? 好きだって暴露してしまったのも取り消
「どっ、どこに向かってる……の?」 恐る恐る問いかけたら「病院」って言われて。 それはどこの病院なんだろう?と、私の中に更なる疑問を呼び起こすの。 「頼綱《よりつな》の、……トコ?」 何となく頼綱の顔が浮かんでそう言ったら、無言で睨まれて。 それは肯定なの? 否定なの? どっち? *** 「急に押しかけてすみません」 寛道の声に、私は彼に手をギュッと握られたままビクッと身体を跳ねさせる。 「あら、いいのよ。寛道《ひろみち》くんならいつ来てくれても大歓迎」 ニコッと笑ったお母さんを見て、私はソワソワしてしまう。 病院って……こっちだったの? なんで……お母さんの、所? 「花々里《かがり》、どうしたの? 今日はやけにおとなしいじゃない」 言われて、「あ、うんっ、お、お腹空いてて」と意味不明な返しをしてしまってから、こんなんじゃお母さんに心配かけちゃうじゃんって思って。 「ね、花々里ちゃん、御神本《みきもと》さんのところでは可愛がってもらってる? 辛い思いしてない? お母さん、もうちょっとで退院できるから……そうしたらまた2人で暮らすことも視野に入れて色々考えようね」 言われて、「だっ、大丈夫! すっごく可愛がってもらってるし、私、今のままでも全然問題ないよ」って答えたら、瞬間手首を握る寛道の力が強くなった。 いっ、痛いってば。 眉をしかめて、寛道の手を振り解こうと、腕を自分の方に引きながら寛道を睨んだら、
「意味わかんないよ?」 キョトンとして寛道《ひろみち》を見詰めたら、「お前のこと好きだっつってんの! 分かれよ」って怒られた。 そ、そんなのっ、唐突すぎて分かりっこない! *** そもそも寛道は小町《こまち》ちゃんが好きなんだから、私への「好き」は恋愛絡みの「好き」ではないはず。 きっと小町ちゃんに振られちゃったからご乱心なのね? ということは、きっとこの好きって――。 「……えっと……それは……私がかぼちゃの煮物が好き、とかいうのと同じ〝好き〟だよね?」 そうなんだと思う、きっと。 こう、小さい頃から慣れ親しんでるから、見掛けたらホッとする感じの。 それ、奪われると思ったから焦ってるのね? もぉ、可愛いところあるんだからっ。 そう思いながら「だよね?」のところで小首を傾げたら、寛道が息を呑んだ。 えっと……。 否定しないってことは……肯定でOK? だとしたら――。 「私も寛道のこと、嫌いじゃないよ?」 寛道、何だかんだ言って、小さい頃から可愛がってくれるし、たまにだけどこんな風におばさんの手料理をお裾分けもしてくれる。 何より私が困っていたら憎まれ口を叩きながらも今日みたいに助けてくれるでしょ? だから、嫌いじゃない。 あえて「好きだよ」とは言わずに「嫌いじゃないよ」って言い方をしたのは何となくで深い意味はない。……
「ばっ、バカじゃないしっ!」 一応この大学、結構偏差値高かったでしょ!? そりゃ、寛道《ひろみち》や沖本先輩の薬学部よりは私の通う文学部はハードル低いけど……私、結構頑張ったのよ? むぅーっと頬を膨らませたら「自力で帰宅出来ないヤツにバカっつって何が悪いんだよ。――それに」 そこでフイッとそっぽを向くと、 「どこの才女が食いモンに釣られてよく見もせず婚姻届にサインすんだよ」 ってつぶやかれて。 あまりにごもっともな言い分に言葉に詰まった。 「そっ、それはっ。――でも! ちゃんと保留にしてもらってるもんっ」 言いながら、ズンズン先に歩いていく寛道を小走りで追いかける。 学内でも人気の少ない裏門までの道。 研究棟などの横を通り抜ける小道は要所要所で少し薄暗くて怖いけど、御神本邸《みきもとてい》へは正門を抜けるよりこっちの方が近道なのだと、今朝寛道に教わった。 ただし、遠回りになってもひとりでは通るな、と釘を刺されて。 だったら教えないでよね、通りたくなるじゃない、と思ったのは内緒。 と、いきなり寛道が立ち止まって、私は彼の背中――正確には寛道が背負ったリュックに鼻をぶつけて涙目になる。 「もぉ、急に立ち止まらないでよ! 鼻打っちゃったじゃない」 金具に当たったから赤くなったかもしれない。 鼻の奥がつん、として……じわりと目端に涙が浮かぶ。 そんな状態で鼻の頭をこすっていたら、振り返った寛道に唐突に抱きしめられた。 「ひゃっ、ちょっ、何っ!?」